紙の本がもたらすもの

黒いデスクの上に置かれた3冊の新書 読書

本の話をすると、「電子書籍のほうが持ち運びやすい」とか「電子書籍は手に入れるまでのタイムラグがない」などの文脈で紙の本が貶められることがあるように思います。自分も現在ではデジタル8割、紙2割くらいまで紙の本の割合が減っています。

電子書籍が普及したのはいつごろでしょうか。調べてみると、AmazonのKindleストアができたのが2007年でした。そのため私自身は社会人になるまで紙の本しかありませんでした。

小さいころは母親に絵本を読んでもらい、小学生のときにアルセーヌ・ルパンを読みはじめ、中学生になってライトノベルを読み、大学生になり新書やら村上春樹やらビジネス書やら自己啓発本などに手を出してきました。40代になったいまは、ミステリー、SF、経済、数学、歴史、行動経済学、脳科学の分野の本をよく読んでいる気がします。

読書家の方と比べると全く読んでいないのですが、それでも月に1、2冊はずっと読み続けています。読書に抵抗がない、というか読みたくなるのはおそらく小さいころから本に触れていたからだと思います。

リアルなものが空間にあるという幸福

父と母は大学の山岳サークルで出会ったのですが、私にとって幸運なことに二人とも本を読む人でした。実家には山の本や山岳小説、高山植物の図鑑、写真集、哲学書、エッセイなどが本棚といわず、サイドボードや机の上、トイレ、玄関など特にこだわりなく置かれていました。

それらをしっかり読むわけではなかったのですが、パラパラ1、2ページめくることはよくあったのだと思います。装丁のデザインやさまざまな質感の紙を繰る感覚、インクや古い紙の臭いなど五感で本の存在を捉えていたようにも感じます。そんな環境が、本を自分の世界の中に違和感なく受け入れさせた気がします。

小さいころこんな自分の経験からふと思うのは、お子さんがいる人は本棚があってもいいのではないかなということです。「効率」という一つの価値軸だけだと電子書籍一択になるのでしょうが、子どもに「読書という世界を伝える」という軸が存在するなら、その方法の一つに「本棚を持つ」という選択肢があってもよいのではないかと思うのです。

その価値観は受験勉強に役に立たないかもしれませんし、雑学に詳しい大人を作らないかもしれません。でもふとしたときに本を手に取ってみるという人間に育てるかもしれません。長い夜に気を紛らわす方法を、スマホ以外に持っている人間というのはよいかもしれません。

内なる宇宙

「内なる宇宙」とはジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」の後日譚のタイトルですが、私たちにもそのような世界がある気がしています。

20代の後半、私は2年間アフリカのマラウイという小さな国に住んでいました。期限つきのボランティアプログラムに参加していたのです。ボランティアはマラウイ全土にちらばっているのですが、首都にそんなボランティアたちが泊ることのできる大きな一軒家がありました。そこには、日本に戻るボランティアたちの置き土産の本が何百冊と集まっています(おそらく今でも)。3、4カ月に1回首都を訪れるたびに私は借りていた本を返し、また5〜10冊くらいをリュックに詰め込んで、自分の任地である電気も水道も通っていない村に持ち帰っていました。

電気のない夜を想像できるでしょうか。もちろんスマホもPCもありません。
そんな蝋燭の灯りしかないひとりの夜は、読書が捗ったのです。何もすることがなくなった21時半くらいに蚊帳に覆われたベッドにもぐりこみ、紙の本をめくっていく。聞こえるのは虫の声と風の音くらいの中、どんどん本の世界に入っていきました。

『遠い太鼓』が自分が海外にいるメタファーに感じたり、『僕は勉強ができない』に嫉妬したり、『ローマ人の物語』で古代ローマ帝国の法を選択した賢明さに驚嘆したり、『クルーグマン教授の経済入門』でマクロ経済をわかった気になったり。蝋燭の下では、1ページ繰るごとに陰が動き、前のページを覆っていきます。その時間経過を感じることが心地よかったのだと思います。

24カ月のあいだしんどい日もありましたが、蝋燭の下で紙の本を読み進めていくことで、「内なる宇宙」を少しずつ広げてこれた気がします。あのときiPadで本を読んでいても、同じような感覚を味わっていたのでしょうか。
日本に戻ってきてもう15年以上経ちますが、大阪で会社を変え、職を変えても「内なる宇宙」への内省が生きているような気がしています。

文字なき会話

15年も同じところに住んでいると顔なじみの店ができてきます。いつも行くバーのマスターは10歳くらい年上の強面、生まれも育ちも大阪で自分とは真反対の人でした。
ただ会話が楽しく、月に2、3回は訪れていたのですが、あるときふと本の話になりました。見た目とは裏腹に小説をよく読むとのこと。そしてジャンルはサスペンス。あまり使われていないテーブル席の上に乱雑に置かれた本を手に取り「読んでええで」とひと言。

マスターすすめてくれたのは黒川博行の「疫病神」でした。大阪のヤクザと建設コンサルが関西を舞台にいろいろな事件に巻き込まれたり、巻き込んだりのストーリー。ヤクザの事務所がバーの近くのエリアだったり、関西のさまざまな地名が出てきたりで、大阪に住みはじめて数年しか経っていない自分はどんどんのめり込んでいきました。

月に1冊くらいずつ借りていたのですが、毎回ひと言ふた言の会話をマスターかわしていました。こんなコミュニケーションは貸し借りができる紙の本ならでは。紙の本を貸し借りすることによって、お互いがその本を読んだコンテクストでの会話が流れていくのです。

本を買うときに誰かの顔が浮かんだら「紙の本」という選択があってもいいのではないでしょうか。

クリスマスの定例行事

大学院時代の友人で隣県に住んでいる夫婦がいます。そこの上の子どもが0歳のときにクリスマスに遊びに行ってから、毎年クリスマスはお宅にお邪魔しています。

毎年人数分のクリスマスプレゼントを贈っているのですが、渡すのは本にしています。下の子もいるので、全部で4冊を12月10日くらいから、本屋をまわり物色するのです。本屋を巡る体験は、知らない本との出会いです。その本探しの中で自分が欲しい本を見つけることもあるし、友だち家族にプレゼントしたい本にふと出合い顔が浮かぶこともあります。

プレゼントをした何年か後に、上の子にあげた本を下の子が読んでいると聞いたときは非常にうれしかったです。他の人も手に取ることができるというのは、紙の本ならではです。贈り物にできるのも紙の本の魅力かもしれません。

書店の価値

すでに語り尽くされているとは思いますが、紙の本を置いてある書店では新しい本に偶然出合うことができます。自分に合った本が、もともと探していた本の近くで見つかることもありますし、書店内を移動しているときに普段は気にしていなかったジャンルの本が、目に飛び込んでくることもあります。書店は、新しい本との偶然の出合いを楽しめる場になります。

また実際に本を手にとってパラパラとページをめくることもできます。電子書籍ストアでは、どのような内容が書いてあるかは目次と最初の数ページしか見ることができないことがほとんどです。
本をめくっていると内容はもちろんのこと、どのような文体で書かれているか、自分が読みやすい文章かなどが分かると思います。また購入前に中身を確認できるだけでなく、装丁や紙の質感、大きさなど得られる情報が多くありますよね。自分の本棚に入ったときにどのように見えるかを想像するのも楽しいかもしれません。

新しい本との出合いという意味では、電子書籍をメインで読んでいる人にとっても書店に行く意味はあるのではないかと思います。

紙の本の経済的なメリット

一般的には紙の本に比べて、電子書籍のほうが10%ほど安いことが多いと思います。たしかに読み終わるまでは電子書籍のほうが安いのですが、読んだあとには実は逆転することもあります。

紙の本は読み終わったあとに、メルカリやヤフオクなどで販売することができます。
たとえば「成瀬は天下を取りにいく」はAmazonのkindleでは1,671円となっていますが、紙の単行本では1,705円です。

これがメルカリでは1,200円くらいで販売できるようです。メルカリ便を使えば送料は200円くらいで、販売手数料を10%として、(1,200+200)×0.1=140円です。1,200−200−140=860円が入ってくる計算です。紙の本の購入代金は1,705円なので、860円戻ってくると考えると実質845円しかかかっていません。

読み終わったあとだとkindle1,671円、紙の本が845円となり紙の本が電子書籍の半額くらいの金額しかかかっていないことになります。このように二次流通によって市場を拡大させることは、メルカリが掲げているサーキュラー・エコノミーの一翼を担うことにもなっています。20代のひとたちは服を買う際に転売できるものかどうかで判断しているなんていくことを聞くので、それが紙の本に対しても拡張されているといえそうです。

紙の本のメリットをいろいろと考えてみましたが、いずれも実際に物理的な本があることによって成り立つものかなあと思います。子どもが本棚から本を手にするのも、暗い空間でひとりの時間に没頭できるのも、貸し借りできるのも、プレゼントをしてその家族の目にとまり続けるのも、偶然の出合いがあるのも。

もちろん電子書籍のメリットもあるので、両者のメリットを知りながら自分で選択をできるというのが幸福なことなんじゃないかと考えています。

おまけ

最後にアフリカの2年間に読んだ本を並べてみます。たぶん読んだ順に記録していたはずなので、最初の方は小説やエッセイばかりを読んでいたことがわかります。後半は日本に帰国することを意識して経済や社会や組織といった実用的な本がならんでいます。ひとつ断っておくと、本棚に並んであった本をピックアップしているのでこのすべてが自分の趣味というわけではありません(笑)

  • 国境の南、太陽の西/村上春樹
  • 風の歌を聴け/村上春樹
  • ランゲルハンス島の午後/村上春樹
  • 遠い太鼓/村上春樹
  • 海辺のカフカ/村上春樹
  • キッチン/吉本ばなな
  • 僕は勉強ができない/山田詠美
  • アンチノイズ/辻仁成
  • 蔓延する偽りの希望: すべての男は消耗品である。Vol.6/村上龍
  • ウェルカム・ホーム!/鷺沢萠
  • 幼児教育と脳/澤口俊之
  • 入れたり出したり/酒井順子
  • パン屋再襲撃/村上春樹
  • ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー/山田詠美
  • ハチ公の最後の恋人/吉本ばなな
  • 国家の品格/藤原正彦
  • ローマ人の物語/塩野七生
  • 夜中の薔薇/向田邦子
  • 向田邦子全対談/向田邦子
  • 光の教会 安藤忠雄の現場/平松剛
  • 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹
  • 下流社会~新たな階層集団の出現~/三浦展
  • バカの壁/養老孟司
  • 脳を鍛える: 東大講義「人間の現在」/立花隆
  • 「超」整理法/野口 悠紀雄
  • 非連続の時代/出井伸之
  • ONとOFF/出井伸之
  • 組織デザイン/沼上幹
  • 生き方の原則/邱永漢
  • 世界を変える人たち 社会起業家たちの勇気とアイデアの力/デービッド・ボーンスタイン
  • 朝は夜より賢い/邱永漢
  • 稼ぐ人、安い人、余る人 仕事で幸せになる/キャメル・ヤマモト
  • 一流の条件 ビジネススタイルを固める43章/山崎武也
  • カルロス・ゴーンは日産をいかにして変えたか/財部誠一
  • 中学生の教科書 死を想え/島田雅彦
  • 中学生の教科書 美への渇き/吉本隆明
  • 生きる意味/上田 紀行
  • 思考の技術-エコロジー的発想のすすめ/立花隆
  • 会社の寿命/日経ビジネス
  • UFJ三菱東京統合: スーパーメガバンク誕生の舞台裏/日本経済新聞社
  • 男たちへ フツウの男をフツウでない男にするための54章/塩野七生
  • プロ論。/B-ing編集部
  • クルーグマン教授の経済入門/ポール クルーグマン
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